たたかう君の姿を ~『標的の島 風かたか』感想
この映画には「たたかう人」がたくさん出てくる。高江で辺野古で宮古島で。
彼らは自分たちの平穏な暮らしを守り、子や孫に渡したいという理由でたたかうが、同時にそのありように対しても葛藤しており、二重の意味で「たたかっている」。
この場合「たたかい」は「闘い」と表記されるのが適当かもしれないが、私にとってはそれも違和感あるのでひらがな表記にする。
彼らの姿を通じて、人が生きるということにたたかいは避けて通れないものであり、それから逃げ続けると結局誰かのたたかいに利用されてしまうのではないかということを感じた。
一方、ここには「戦わされている人」も登場する。アメリカ海兵隊の兵士や自衛隊員、他県から沖縄に派遣された機動隊員たちだ。
この二種類の人たちの違いは、彼らの表情を見れば明らかで、どちらが血の通った人間らしい表情をしているか、ということを映像ではっきりと示している。
そう、「たたかう人は美しい」のだ。
ところで、この映画のチケットは、とある友人にもらって見に行ったのだけど、彼女はこの作品を『この世界の片隅に』と比較した論評をフェイスブックのタイムラインに記していた。
そして、『この世界~』で描かれる戦争と平和の扱われ方のある種の軽さ、それを大量消費するがのような感動と絶賛に対しての違和感を述べている。
『この世界~』を見ていないので、私がこれから述べることは暴論になるのかもしれないが、あえて書いてみる。
おそらく彼女の違和感とは、「たたかわない人」による徹底した傍観的態度への共感に対するものなのではないか。
戦前の日本人の多くは、悲劇的結末に向かうまでに「平和を守るたたかい」をしてこなかった。
もちろん、あるときからできなくなってしまったからなのだが、「たたかい」をあきらめた者は結果的に国家総動員体制での戦いを強いられ、壊滅的な敗戦を体験させられることとなった。
終戦後、すべての日本人が思ったことだろう。
「やはり平和は尊い」「戦争は悪である」と。
その教訓はどこまで活かされてきたのか?
「戦争は悪である」がいつの間にか「戦争に負けることは悪である」にすり替えられていないだろうか?
今、再び日本が「戦争のできる国」となっている事態のさなかで必要なこれらの検証がされることなく、過去の傍観的態度に感動するだけでいいのか?
という問いかけはとても有効である。
なぜなら、過去の過ちを繰り返さないためには、沖縄で進んでいる戦時体制と、アメリカが構想する「標的の島」とは日本列島全体であるという現実に目を向ける必要があるからだ。
今はまだ「平和」も「民主主義」もたたかうことを避けなければリアルに手にすることができる状況なのだから。
たたかう君の姿を、たたかわない奴らが笑うだろう、Fight! ♪