Owl Street Journal

すべての自由人に捧げる「ふくろう通り白書」。時代の変わり目に起こる出来事を左斜め下からブッタ斬り!

粛々と・・・

ガンジーが第二次大戦中に日本人に向けてこんなことを書いている。

「あなた方はいかなる訴えにも耳を傾けようとはしない、
ただ強い者のみに耳を貸す民族だと聞いています。
それが大きな誤解でありますように」

しかし、残念ながらガンジーの耳にした洞察は正しい。

 

日本人は本当に「粛々とする」のが得意な民族(国民)だ。

個人ではあまり抽象的なこと(理想とか理念とか)は考えずに
良いことに対してもそうでないことに対しても
自分よりも大きな存在(something great)に委ね
今あること、あるものに感謝しながら
自分のできることを着実にこなしていく。

 

畏敬すべきサムシング・グレイトとは

神仏や自然、先祖といった目に見えない霊的な存在から

親や教師、権力者や権威者といった「立場が上の者」までさまざまだが、

現代社会においては主に後者が意識されることが多い。

 

こうした日本人の精神性は良い方向に活かされたとき

大きな力を発揮する。

感情に振り回されることなく

全体とそのなかの自分の役割を見据えて

何が最善かを意識して行動することで、

300年も鎖国した後に短期間で欧米化し、
壊滅的な敗戦の後に短期間で経済成長できたのだろう。

それは多くの外国人を驚嘆させたし、賞賛も得てきた。

 

自分のなかにあるそうした資質を私自身も誇りに思う。

 

けれども、それが悪い方向に働くと
自発的な理念や理想というものがないから
短期的な目標達成にばかり意識を奪われがちになる。

そして、どこに向かっているのかもわからないまま
ただ粛々とこなすこと、それ自体が目的化していく。

そうなってしまうと厄介だ。

 

粛々とする大半の者が、そうしない者たちを憎んだり、

差別する構造が生まれるのだ。

いわゆる保守派市民によるリベラル派への憎悪というのは、

自分たちが敬う大きな存在

(政府や公的機関や経営者、アメリカなど)に対して、

同じように粛々と従わないことへの不満なのではないかと思ったりする。

 

さらに、従軍慰安婦南京大虐殺といった旧日本軍の戦争犯罪に対して

異議を申し立て続ける中国や韓国への嫌悪も

同じ感情のフィルターを通してみるとわかりやすい。

 

日露戦争から第一次世界大戦までに間に

大東亜共栄圏の盟主としての立場を手にした日本は

他のアジア諸国とその国民にとっての「大いなる存在」のはずだった。

 

確かに第二次大戦ではアメリカに負けたことで国威は失墜したが

彼らよりも高みにいる存在であるはずの自分たちに対して

歯向かうとは何事か、そういう類の怒りであるように思われる。

 

「日本人が目覚めれば世界が変わる」

などということが、国粋主義的な意味合いだけでなく

いろんな立場や思想のなかで語られるが

それは、この「粛々と成し遂げる」ことの目的や対象が

何であるかに気づくという意味ではないかと思う。

 

私たちは何のために何に対して粛々とするのか?

 それをもっと意識しなくてはいけない。
 
少なくともそれは、権力者に唯々諾々と従うことではない。
 
例えばそれは、
今の日本国憲法が掲げている崇高な理念だったりするのではないかと思うのだ。