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Owl Street Journal

すべての自由人に捧げる「ふくろう通り白書」。時代の変わり目に起こる出来事を左斜め下からブッタ斬り!

その「枠組み」の内と外

近年、この時期に元同級生とか元ママ友から電話をもらうようになった。
それは、お子さんの就活のための情報収集で、いわゆるマスコミ関係の仕事をするにはどうしたらいいの?というご質問。

えーと。「マスコミの仕事」をしたいのはお子さんだよね?
なぜあなたが質問してるの?
とくに「マスコミ」なんて情報収集力が求められる仕事だよ。

そんなのは私に聞くより、大学の就職課の人や就職エージェントのアドバイザーに相談した方がいいんじゃない?

などと適当に交わしたけれど、電話を切ってから何だかやるせない腹立たしさを感じた。

 

ここには大きく分けて二つの問題点がある。

ひとつは、こうやって親に守られ道筋をつけてもらった彼らが仮にマスコミ系の企業に就職したとして、そこでどういうジャーナリズムが生まれるのだろうか、ということ。

 

メディアに関わる職業というのは、常に自分の思考や思想と世の中の潮流に対するスタンスを問われる仕事になる。「良い子」では務まらない場面もあるのだ。

 

けれども、第二次安倍内閣以降、首相官邸からの圧力によって報道の自主規制が目立つようになり、政府に批判的なニュースが取り上げられにくくなっている。

これはいわゆる大手のメディア企業内に「良い子」のマスコミ人が増えてきたからだと言えないだろうか。

 

とはいえ、こうなったのはある日突然のことではない。いつも間にかじわじわと、とりあえず何となく見栄えが良くて安心できる安全そうな情報をもとに、無難な選択を繰り返すという行動パターンに慣れきってしまった私たちが生んだともいえる。

ということがふたつめの問題点。

 

<とりあえず何となく見栄えが良くて安心できる安全そうな情報をもとに、無難な選択を繰り返すという行動パターン>

 

これが守られている世の中を「平和」だとすることに疑いを持たない人があまりに多い社会は、本当「平和」なのだろうか? ということだ。

 

「平和」というものは、その社会を構成する人一人ひとりが意識して守り、創り出さなければ、とてつもなく脆い。

だからこそそのために情報が必要で、その情報をありのままに受け止めれば、自分たちのいる場所が決して「平和」とはいえないことを考えないわけにはいかない。

 

その居心地の悪さに耐えられないから、狭い枠組みのなかの「平和」だけを見て、それを守ろうとしているのかもしれない。

 

そして、これは個人的な感覚なのだが、このメンタリティが、私にはとても辛い。

 

なぜなら、私の親もかつてそういう狭い枠組みの中にある「平和な場所」を用意してくれていたのだが、それに疑いを抱いてしまった私にとって、そこは生きづらく苦しい場所だったからだ。

 

狭い枠組みの中の平和や幸福、これに疑問を持つか否かは、その人の人生の方向性を決定づける。

疑いを持たなければ、両親との関係性にも社会に対する考え方にも、さほど葛藤はなかっただろうが、私はそうではなかったので、その「安全で平和な場所」を結果的に飛び出してしまった。

 

友人の話を聞きながらとても居心地が悪かったのは、彼女の「狭い枠組み」への疑いのなさに対する違和感と、それを伝えることで生まれる強烈なコミュニケーションギャップを容易に推測できるからだった。

 

私たちは気づかぬ間に、この「枠組み」によって分断されているのである。