Owl Street Journal

すべての自由人に捧げる「ふくろう通り白書」。時代の変わり目に起こる出来事を左斜め下からブッタ斬り!

職場の機能

12月、まったく働かなかったので、諸般の事情を鑑みw週に2~3日久々に肉体労働系のバイトをしている。

身体動かす仕事も嫌いじゃないし、終わったときに感じる、スポーツをした後のような爽快感もいい。

けれども、不満もある。
それは、仕事の流れが見えないということ。

毎朝現場に行って上司(社員)や先輩にやるべきことを尋ねると、「そのときにやること」だけを伝えられる。

作業そのものはそれほど難しいものではなく、いわゆる単純作業なので、ひとつのタスクが終わったらまた指示を仰ぐ、そしてまた別の作業が振り当てられる、ということで一日が終わる。

そんな感じでまだ数日しかやっていないけど、知らない間に「要求される効率」や「期待されるクォリティ」は高まり、気が付けば「出来て当たり前」のことが増えている。

でも現場は毎日変わるので、昨日やったこと(経験)がそのまま次に使えるとは限らないのだ。

何故こんなことになっているのかといえば、要するに誰もがとても忙しいので、新人に仕事を教えている時間があれば作業を進めたいのだろう。

この徹底したOJTにめげることなく、皆、健気に働いている。
失敗したり、叱られたりしながら、少しずつ「当たり前にできること」を増やして仕事しているようだ。
もちろん、私も同じようにしているつもり。

でも、何かが納得がいかない。
どうしても「問題」を感じてしまう。

そのことをバイト仲間に話したんだけど、私自身ももやもやした感情のなかにいたせいか、どうも伝わらない。

このかみ合わなさ加減は一体どういうことなんだろう?
そう思って改めてラインの文章を読んでみたら、私はこの職場が根本的に「仕事の場所」としての機能を失っている、そういうことを指摘したかったのに、彼は個人的な話として聞いているのね。

 

私は別に、仕事が覚えられなくてイライラしているとか(イライラしてたけどw)、上司に注意されるのが不快だとか(不快だったけどw)、そういう個人的な愚痴を言いたかったのではない。

職場の機能とは、人が安心して仕事を覚え、安全に働くことを担保する、ということが基本だということ。

それはどういうことかというと、「自分が今やっている作業」が全体のなかでどういう役割を果たし、どのような成果をもたらすのか、ということがわかった上で仕事できる環境、という意味だ。

「全体のなかの役割」というものがはっきりするほど、それにコミットできるほど、仕事のやりがいや充実感は生まれやすいし、コミュニケーションも取りやすいし、応用も利く、つまり成長につながりやすくなる。

反対に、「部分や役割に徹しろ」と言われてする仕事には、何か不安が付きまとうし、ネガティブな反応に対してもナーバスになりやすい。

これは、私の個人的な感情の問題であり、個人的に解決すべき問題なのだという意見は件の友人に限らず恐らく多いのだろう。
だって、「嫌ならやめれば済む話」だからね。

フリーランスとしての「稼ぐ力」をもっと身に付ければ、そんな体験をせずに済む、という話でもあるのかもしれない。

でも、そういう話とは別の次元で、

人が安心して仕事を覚え、安全に働く
という機能を、仕事場(職場)というコミュニティが備えているのはいいことだと思うのだ、単純に。

それを目指そうじゃありませんかと言いたいのだ、純粋に。

 

でも、こういう声自体が、すでに現実から乖離してしまって、理解されにくくなっている。

だって「あまりにも忙しすぎる職場」が当たり前になってしまっているから。
その現状をどうするかということを「個人的に」解決する、すなわち順応するか、離れるかの二者択一、それしかないと思われているから。

順応した者は、同じような「OJTの鬼」として新人教育に携わるだろう、少なくとも「問題」を何も感じていなければ。
こうして「不適切な仕事場」は再生産されていくサイクルが当然になっている事実。

 

「問題」が複雑になりすぎて、解決のための糸口さえつかめないから、誰もが「とりあえず自分ができる範囲のこと(=個人的問題)」のみにフォーカスして取り組んでいる。

 

今の世の中に蔓延する、この「すべては個人の問題」という考え方、それはそれで正しいのだが、全体的で根本的で本質的な解決方法につながりにくい。

本来は、「すべては個人の問題」ということと、宮沢賢治のように「世界全体が幸せにならなくては、個人の幸せはあり得ない」ということは繋がっているはずなのに。

 

ということで、私の提言:まずは、タイマーの設定を少しずつ長くして
面倒くささを楽しめる世の中にしようよ、ということを言い続けたい。