日本女性のなかには未だ「大奥」と「遊郭」が内在するのか
実にもやっとする記事を読んだ。
ここで語られているのは、まるで明治生まれの姑のような古臭い価値観。
それが一見、何か新しい視座を提示しているように見えるのは、これを語っているのが若くて知的な現代女性だからだ。
<鹿児島には「男尊女卑(という差別的風習)」があるけれど、「処世術」を心得ていれば、それはメリットとして機能する> と筆者は指摘する。
しかし、その「処世術」にコミットできない者は、二重に(つまり男性全般と「処世術」にコミットした女性の双方から)疎外される、という構造の問題点には触れようともしない。
同じ処遇を得るために、一方には何も負荷がなく、そうでない者には何かの条件が課せられるという社会構造、それが「差別」と呼ばれるものだ。
はっきり言って、人類の歴史のなかで差別がなかった時代も場所もないが、それを少なくしようとするか、放置しておくのか、コミュニティの質を決めるのはその差である。
だから、私たちの社会(鹿児島を含む日本)が一定の近代化を遂げ、民主化を目指すコミュニティであろうとするなら、「差別」を肯定しちゃいかんでしょ、しかも、こんなに明るく無感覚に。
という指摘をしたいところだが、それは「コワイ」と言われて遠ざけられるらしい。
なぜなら、ここで語られているのは「処世術」という条件をクリアすることでメリットを得ていると自覚する者の視座だからだ。
そのメリットとは、果たしてどれだけ有効で有益なのか疑わしいが、そういう認識の下では「差別」は放置される以前にその存在さえ意識されることはないだろう。
ところで、時代劇の映画やドラマや小説や劇画などで「大奥もの」と「遊郭もの」が、今でも一定数の女性から人気を得るというのは、一体どういう心理が働いているのだろう? と、 私自身も結構好きで見てしまうから複雑な思いになるのだが、 それはきっとこういうことだ、と今わかった。
大奥も遊郭も、「男尊女卑」という社会構造を前提としているけれど、そのなかでヒロインはあくまでも自分なりの筋を通そうとして、先述したような二重の疎外に苦しめられる。 現代女性も、実は基本的にこれと同じ構造を生きているという証なのではないか。
だから、私たちは大奥や遊郭という非常に理不尽な社会構造のなかで特殊な条件を突き付けられ、その過酷さに苦しみながらも健気に生きるヒロインに感情移入するのかもしれない。
そういえば、大奥ものの人気ヒロイン「篤姫」も薩摩おごじょだったね。